日常日記

店長の日常

Winny

本日2本目のブログ。

アマプラで映画「Winny」をみました。泣けた。感動した。主演の東出昌大がこれまたとてもよかったです(最近、東出推しのわたし)。今日の1本目のブログにも通じる内容でもありました。この映画は、何か便利なものを開発し、その開発されたものが悪用された場合、その責任は誰にあるのか?ということが、ひとつのテーマでもあります。

映画「Winny」をみて、わたしが思ったことを書くと、長ったらしい記事を10本は書けそうです(笑)。映画をみながら思い出したのは、天才数学者「岡潔(おかきよし)」の言葉です。東出昌大が演じる、天才プログラマー「金子勇」は、「あなたにとって、プログラミングとはなんですか」と聞かれて、「自己表現である」と答えています。同じことを、岡潔も述べているんですよね。以下、引用。

 

数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。

 

岡潔は、「数学なんて人類にとってどういう利益があるのか?」ということをよく聞かれることがあったそうで、その答えがなんとも文学的で好きです。

 

私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。

 

金子勇も、Winnyを開発した動機について、

「ある登山家が、山に登る理由を問われて、”そこに山があるからだ”と言ったのと同じように、アイデアが頭に浮かんだから、ただそれを表現したかっただけ」

と答えました。

開発したあとのことを考えていたら、開発なんて不可能になるというのが、金子勇氏の弁護団の主張することのひとつだったのですが、でも、どんなテクノロジーも悪用を免れませんよね。電話は便利なもので、電話によって人の命が救われることもあれば、オレオレ詐欺のように詐欺に使われることもあるわけです。そして、これはすべてのテクノロジーについていえることだと思うのであります。

また、オッペンハイマーは「原爆の父」と言われますが、原爆が作られ、それが広島・長崎に投下されるためには、無数の原因が考えられるわけです。車や飛行機、エンジン等の発明がなければ、原爆の投下は不可能ですし。そう考えていきますと、道具の発明というものが、人類を幸福から遠ざける諸悪の根源だと言えるのかもしれず、実際、老子は、人々が幸福に暮らせる理想の国家を作るためには、「道具があっても、それを使わせない」ということを、2,500年前に言っているようです。

 

aja-yokohama.hatenablog.com

 

また、老子と同時代の人である「荘子」は、「機械あれば機事あり、機事あれば必ず機心あり」と述べ、機械(道具)を使用するようになると、人間本来の営みができなくなる、と老子と同じく、道具の使用を戒めていたりするのが、面白いです。

 

この荘子の言葉については、以前、「旧日常日記」にも書いたことがあります。

 

blog.a-ja.jp

 

とはいえ、今日に至るまでの人類の歴史は、必然的かつ不可避的な流れなのではないだろうかと感じるのでした。