日常日記

店長の日常

6時に起きる。今日はなんだかすっきり起きることができた。
昨晩、営業が終わってから、2回目の「クオリア」を観に行った。2回目もとても面白く、感動した。「クオリア」とは「感覚質」という意味だそうけど、いまいちピンと来ないから、ネットで調べたら、「感覚的な意識や経験、意識的・主観的に感じたりする質のこと」ということだった。つまり、クオリアとは、個人的なものなのだなと思った。「私」という感覚と言い換えてもよいかもしれない。仏教なんかでは、「私」という感覚は幻想であり、実際には存在しないものなのだけど、我々凡夫は、「私」は存在すると錯覚しており、そのために、苦しみが生じている、などということが言われる。なんてことを言われても、よく分からないと思う。書いているぼくもよく分からないまま書いている。上映終了後、今回も監督さんによる舞台挨拶があった。前回は、監督さんのほかに、「太一」役の男性だったけれど、今回は、監督さんの俳優時代の先輩が来ていた。

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声も顔も渋く、落ち着いた、イケオジだった。舞台挨拶というと、大抵は、初日だけだったりするけど、クオリアでは、毎回、監督が出てくる。つまりは、常に全国で1スクリーンだけ上映されているということだ。11月と1月は新宿、3月は大阪、横浜、来月は愛知で上映されるとのこと。つまり、監督さんは、映画を観にきたすべての人の姿をみるということである。この事実にぼくはとてもびっくりし、と同時に、とても感動してしまった。監督さんは、「クオリア」を世界に届けたいと言っていて、そうなったらよいなとぼくも切に願うのだけど、残念ながら、現時点ではその徴候はみられないような感じである。クオリアが持つメッセージ性は、アカデミー賞を取った「ゴジラ」や「君たちはどう生きるか」にも負けず劣らず、というか、それ以上の価値があるように思うんだけどな。というか、「君たちはどう生きるか」に関しては、楽しい映画ではあったけど、正直、意味はよく分からなかった。クオリアをみた人が、「この映画は愛の映画ですね」と言っていたのだけど、「ほんと、仰るとおりだ」と思った。この映画以上に、愛というものを感じさせてくれる映画をみたことなんて、ほとんどないような気がする。

ジャズセッション

「旧約聖書がわかる本」を読み直しているのですが、とても面白いです。ぼくは、自分がよいと思った箇所には、付箋を貼ることも多いのですが、「よいところに貼ってあるなあ」と思うこともしばしばなのであります。でも、内容に関しては、すっかり忘れている(笑)。「ちゃんと覚えておけよ!」と自分で自分につっこみを入れたくなります。「旧約聖書がわかる本」の副題は「<対話>でひもとくその世界」となっており、帯には、こんなことが書いてあります。

対談という形式は旧約聖書を論じるにふさわしい。なぜなら旧約聖書がきわめて「対話的」テクストだからだ。
本書の大きな特色として、本文を直接引用して論じている点が挙げられるだろう。テクストを目の前にすることが理解を深めるとともに、読者もまた「対話」の場に引き入れられることが目論まれている。
対談はジャズでいえば、スタジオセッションのように行われたが、いずれも知的興奮に満ちた時間だった。その熱が読者へも間接にながら伝わり、「対話」の場へと誘われることを願ってやまない。

この言葉は本の前書きからの引用なのですが、本文第一章の一番最初には、次のようなことが書いてあり、過去の自分は、早速、付箋を貼っておりました(笑)。

人間の経験として歴史をいかに作っていくか。たとえば歴史的叙述の正しさ、真正さを考えたとき、結論的にいえば、絶対的な正しさというものはない。歴史なるものが存在して、それを私たちが客観的に眺める、というふうにはできない。私たちは歴史のなかにいながら、歴史を語ることしかできない。客観的な記述は原理的に不可能で、歴史は必ず物語や虚構と関わりをもたざるをえない。だとすれば、歴史叙述の正しさはどのように確保できるのか。複数の物語がただ並列し、互いにせめぎあうだけなのか。
これはたいへんな難問ですが、歴史の正しさを考えるとき、それを確保する方法がひとつあるとすれば、おそらく「対話性」ということだろうと思います。自分が絶対ではないと認め、その上で他と対話をしていくこと。正しさの最低限の根拠はここにしかない。対話性こそが歴史叙述に限らず、人間の知的営為の前提であり、同時に目標である。そう考えます。

よい。本当によい。本当によいことが書いてある。でも、付箋を貼っておきながら、すっかり忘れてました(笑)。

でもなんで、カップル喫茶のブログに、こんな堅苦しいことを書いているのかと不思議に思う方もいらっしゃるかもしれません。その一番理由はぼく個人のためなのですが、ぼく個人のために学んでいることが、エイジャの営業にも役立つように思うからなんですよね。そのことを意識し始めたのが、2012年ころのことです。で、そこから、うんちくを得意げに語る傾向に拍車がかかっていったのであります(笑)。

カップル喫茶営業がほかの商売と違う、一番特徴的なところは、カップルでないと入店できないところだと思います。つまりは、別れてしまったら、その時点で、たとえエイジャに来たいという強い欲求を持っていたとしても、エイジャへの扉は無惨にも閉ざされてしまうのであります。ですから、もしも別れるカップルさんが増えてくると、ぼくが路頭に迷う可能性もでてくるわけです(笑)。というわけですので、エイジャの会員さんにおきましては、なるべくお二人の間で良好な関係を築いていっていただけますよう、そのヒントになりそうなことを、このような労を用いて、したためているわけなのでございます(笑)。

そして、また別の理由と致しましては、エイジャのことをより理解して欲しいということも、もちろん、あります。「旧約聖書がわかる本」の中に、対談はジャズセッションのような形で行われたとありますが、まさに、エイジャはジャズセッションの場でもあるんですよね。調和というものを大事にしておりますが、とはいえ、予定調和的なものではないんですよね。エイジャが、SNS等を使っての待ち合わせを禁止しているのも、それを許可致しますと、予定調和的なものを持ち込まれ、エイジャが大切にしている、偶然性、即興性による調和が乱されてしまうからなのであります。相互観賞の雰囲気を作り上げる前の会話を(原則的に)ご遠慮いただいているのも、同じような理由からであります。ジャズでは、話し言葉ではなく、楽器で対話をしますが、エイジャにおける楽器は女性と言ってもよいかもしれません。押さえるポイントや押さえ方の強弱によって、音色が変わってきますし。また、押さえるポイントの適切な箇所や押さえ方の適切な強度は、それぞれの楽器に違いがあるというのも、共通しているかもしれません。エイジャと一番似ている場所は、もしかしたら、ジャズセッションかもしれないと思うのであります。

本日2本目のブログ。

結局、今日はどなたも来られなかった。お店でのんびり過ごしていると、20年以上のお付き合いになる男性会員さんから電話がかかってきて、長話をする。

夜はヨガのレッスン。生徒はぼく以外に女性が2人の、計3人。何度か顔を合わせていることもあって、最初は、しばし雑談で盛りあがる。レッスン中、何度か腰に痛みが走り、その度に動けなくなり、先生に心配される。「映画の見過ぎでは?」と言われ、「そうかもしれません」と答えると、生徒の女性から、「軽いエコノミー症候群になっているのかもしれませんね」と言われる。腰がよくなるまでは、映画はみないほうがよいのだろうか。オッペンハイマーなど、まだいろいろみたい映画はあるというのに、なんてことだ。先生に、「今、ジャック&ベティで、インド哲学の神話のアニメが上映されてますよ」と教えてあげると、「え!その神話好きなんですよ。よい情報ありがとうございます」と感謝される。先生は、昔、演劇もやっていたらしいから、クオリアもおすすめすると、「すっかり、映画通ですねー。ジャック&ベティなんて、映画通の人が行くところですよ」と笑いながら言われ、「はい。にわかですが」と答える。でも、ヨガからの帰り道、「クオリアをみることが出来たから、もう映画はそんなにみる必要はないかもな」などということを思った。クオリアは、それだけ、ぼくにとって、個人的意義のある映画のように感じた。でも、クオリアの監督さんが言うには、「この映画は、観る人によって、感想がまったく異なるであろうことを意図して作った映画なんです」ということだった。「クオリア」という言葉の意味は「感覚質」という意味のようで、タイトルからして、それを意識したそうである。これは、本当に素晴らしい視点だなと感じた。同じものを見たり、聞いたりしても、印象は人それぞれ、まったく異なるのが普通だと思うけど、自分のクオリアこそが一番優れていると思い込んでしまう人もいるように思う。ぼく自身がまさにそういうタイプなのだ。エイジャでも、たまに、自分のクオリアを押し付けてしまうような遊び方をする方もいらっしゃって、ぼくにクレームが来ることもある。人それぞれ違うクオリアをお互いに尊重しあえることが、円満な人間関係には大事なんだろうな。そして、最高の快楽は、自分のクオリアと相手のクオリアが一致する瞬間なのかもしれない。