日常日記

店長の日常

本日2本目のブログ。

最近は書きたいことが、あとからあとから、次々出てきて、それで、収拾がつかなくなり、結局、書けずに終わる、そんな日々を繰り返している。書けない理由として、「こんなこと書いて本当によいのだろうか?」という思いや、「誰かに認められたいという、ただの承認欲求で書きたいだけなのではないだろうか」という思いが、心の中に湧き上がってきて、書くことをどうしても躊躇してしまったりする。とりあえず、いま書きたいと思っていることを、思い浮かぶがままに上げてみると、宝塚のことやホストクラブのこと、恋や結婚についてさらに深堀りしたこと、いま読んでいる土井善晴の「味付けはせんでええんです」や、「サークル有害論~なぜ小集団は毒されるのか」(荒木優太著)のこと、源氏物語や夏目漱石についても、まだまだ書きたいことはあるし、あと、聖徳太子についても、また改めて書きたいし、フヅクエのマスター阿久津隆の「読書の日記」に絡めて、書きたいことがあるし、ほかにもまだまだたくさんあったりする。これらすべてのことを有機的に関連付けて書きたいのだけど、系統的に筋道立てて書くには、ぼくの能力は乏しすぎる。だから、適当に、思いつくがままに書いてみたいと思う。

 

まずは、聖徳太子の17条の憲法から書いてみようと思う。毎度、堅苦しい話ばかりで恐縮なのだけど。ぼくは、遡ること9年前、17条の憲法に書かれている叡智にビックリし、全文をブログでご紹介したことがあった。

 

blog.a-ja.jp

 

17条の憲法は、第1条の「和をもって尊しとなす」という有名な文から始まるけれど、17条の憲法というのは、結局のところ、「和の世界」をどうすれば作り上げられるのかという、その方法論が書いてあるということになるのではないかとぼくは感じている。

 

そして、その方法として強調されているのが「対話」の重要性である。

 

第1条にはこんなことが書いてある。

 

一にいう。
和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。
人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。
だから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。
しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

 

そして、最後の17条。

 

十七にいう。
ものごとはひとりで判断してはいけない。
かならずみんなで論議して判断しなさい。

ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。
ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。

そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。

 

最初と最後で、対話について書かれているということは、「和の世界」を作るにあたって、対話がとても重要、ということになると思う。そして、対話の前提として、上下の身分にかかわらず、対等な立場で話し合いができる環境が必要になるのだと思う。上の立場にいる人が、その地位を利用して、自分の意見を自分の都合のよいように通そうとするならば、その組織はいずれは崩壊に向かうほかない、17条憲法からは、そんなことが読み取れるような気がする。

 

ジャニーズ事務所の問題も、宝塚歌劇団の問題も、もしも17条憲法の精神が生かされていたら、起きようはずがないことだったと思う。

 

とはいえ、大抵の人にとって、対話をすることはとても難しいものであるということも、17条憲法には書かれているような気がする。

 

それが10条である。

 

 

十にいう。
心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。

人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。
相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。

自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。
皆ともに凡人なのだ。

そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。
おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。
それは耳輪には端がないようなものだ。

こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。

自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。

 

「人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある」

 

というのは、

本当にその通りだと思う。

 

人間というものは、自分の考えこそ正しいと思いたがる性向があるから、そうすると、自分の考えとは違う考えは、自動的に、間違った考えと考え、それで対立、紛争が勃発してしまう。人類の歴史をほんの少し学ぶだけでも、このことが全世界の全地域、全ての場所で起きており、それは現在も起こり続けていることがわかる。

 

「相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい」

 

これは、本当に聖徳太子様の仰せの通りだと思うのですが、人間誰しも多かれ少なかれ、プライドというものがあるから、自分のほうが間違っていたと薄々感じているときでさえも、自分のほうが間違っていたとは認めるのは難しいのが普通のような気がする。少なくとも、ぼくはそうである。自分の間違いを素直に認められる人は、それだけで人格者だなと感じるのであった。