日常日記

店長の日常

6時20分起床。体重60,8キロ、体脂肪率16,3パーセント。

ヨガのあと、ジョギング。窓から外をみたときは、数名の歩いている人たちが傘を差していなかったから外に出たのだけど、霧雨が降っていった。雨が降っているときは、基本、走らないのだけど、構わず、そのまま山下公園へと向かって走った。長ズボン、長袖Tシャツだったのだけど、ちょっと寒かった。そろそろ、手袋やウィンドブレーカーが必要になるなと思った。ジョギングから帰ってくると、ダラダラとネットサーフィン。主に「X」のポストをみていたら、昭和天皇に関する、とても素敵で興味深いエピソードがタイムラインに流れてきて、読んで、「おぉ!!」となった。

 

 

手前味噌で大変恐縮なのだけど、ぼくが「別れない関係・その1」、「その2」において、書いてきたことは、まさにこういうことであった。

 

夫婦円満の秘訣を聞かれた昭和天皇は、

 

「古代からの道徳を守り、終始協調の精神を持ったことが秘訣と言えば秘訣」

 

とお答えになられたそうである。

 

昭和天皇は、まさに、聖徳太子の17条の憲法を体現された方だったのだと、とても感動した。

 

古代からの道徳とは、古代からの知恵と言い換えてもよいと思うのだけど、この知恵が言葉として表現されるようになったのは、およそ2,500年くらい前の、紀元前500年頃なのではないかとぼくは考えている。「神々の沈黙」において、ちょうど人間に意識が誕生したとされているころである。以前、「旧日常日記」で、この時期のことについて書いたこともある。

 

blog.a-ja.jp

 

有名な、旧約聖書におけるアダムとイヴの楽園追放の物語は、アダムとイヴが、神から禁じられた善悪を知る木の実を食べたことで、意識が発生した瞬間を表現しているのではないかとぼくは考えている。禁断の木の実を食べたことで、神から咎められたアダムとイヴは、その責任を、アダムはイヴのせいにし、イヴは蛇のせいにするという責任転嫁をするようになった。これは、ぼくたちが日常生活において、日々、行っていることなのではないだろうか?

 

歎異抄にも次のようなことが書かれている。

 

本当にわたしどもは、 如来のご恩がどれほど尊いかを問うこともなく、 いつもお互いに善いとか悪いとか、 そればかりをいいあっております。

 

歎異抄では、善悪について、親鸞の次のような言葉が紹介されている。

 

何が善であり何が悪であるのか、 そのどちらもわたしはまったく知らない。

 

歎異抄は、夏目漱石が「日本が世界に誇る三冊の名著」の中の一つとして挙げているということを最近知った。(ほか2冊は、宮本武蔵の「五輪書」と新渡戸稲造の「武士道」とのこと)

 

と、こんなことを今日のブログには書こうかなどと考えていたら、ご予約をいただいた方、皆さんにキャンセルをいただき、お休みとなった。これもまた、コンプリート(ご予約数=ご来店数のこと)のひとつの形態である。皆さまから、休みをいただくことになったから、「フヅクエ」に行こうと思ったのだけど(休日のフヅクエの雰囲気に浸りたかったのだ)、眠気に襲われ、そのまま2時間ほど寝たら、フヅクエに行くのも、何をするのも面倒になってしまった。