日常日記

店長の日常

11時50分に起きる。オープンまで40分しかなかった。急いで準備をする。時間に余裕があると、準備に時間がかかるけど、時間がないと自分でも驚くほどにテキパキと動けるようになる。でも、そうやって、急いで準備をし、オープンしたけれど、最初のお客さまがご来店されたのは、13時であった。早めにオープンをした意味はなかった。とはいえ、これはいわゆる結果論である。逆に、早めにオープンをしなかったことで後悔したことは、これまでにも何度もある。どうすることが一番よいのかなんてことは、人間には分からないことなのだろうと思う。それなのに人は、「こうしたほうがよい」、「ああしたほうがよい」ということを言いたがる。政治家の人たちは、こうすれば社会はより良くなると信じて、公約を唱える。そのような公約はあまり実行されないようだけど、実行されたとしても、社会は大してよくならないのではないだろうか。ひとつの問題を解決することはまた新たな問題を作り上げるだけということにはならないだろうか。漱石の「道草」の中で、主人公の健三はこんなことを言う。「世の中に片付くなんてものはほとんどありゃしない。いっぺん起こったことはいつまでも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他人にも自分にも分からなくなるだけのことさ」。世界は同じ内容のことが、形を変えて何度も繰り返されているのにすぎないのであろう。ただ繰り返されるだけでなく、科学技術の進歩と共に、問題が引き起こす影響力は拡大していく。「リベンジポルノ」というのが問題視されるようになってから久しいけれど、これはスマホやネット時代の前からあったのだろうと思う。カメラで写真を撮って、それを職場や学校にばら撒いたり、掲示をしたりということはあったのだろうと思う。昔は、写真の現像が写真屋さんでしか基本的にできず、裸の写真などは現像してくれなかったという。いまは、昔の写真屋さんでは現像してもらえなかったものを、簡単に画像として残すことができ、しかも、ネットという仮想空間に掲示することができる。科学は常に発展し、便利なものが常に発明され、人の生活は便利になっているけれど、そのことで犠牲になる人の数も、また計り知れないほど多いということも事実なのではないだろうか。人類の平均寿命が長くなったことが自然に対する人類の勝利のように語られることもあるけれど、そのために、元気な人の生活が圧迫されるようになったという側面も否定しがたい事実であろうと思う。何がよくて何がわるいのかという判断は人類にはできないのではないだろうか。って、なんでまた、こんな堅苦しい話題になってしまったのだろうかと思ったら、早めにオープンしたけど早く来てくれた人は誰もいらっしゃらなかったということから始まったんだった。