日常日記

店長の日常

8時30分に起きる。体重58キロ、体脂肪率14,2キロ。
体調は良くなってきた。とはいえ、最初から、大したものではなかった。たぶん、風邪だと思うのだけど、くしゃみや鼻水がたまにでるくらいで、熱はまったくなく、じつに軽いものだった。でも、昨日は大事を取って、一日中、お店でずっとゴロゴロしていた。ゴロゴロしながら、「道草」を聴いた。聴きながら、途中、何度も寝てしまったけど、全部、聴き終わった。漱石は最高だ。漱石は、なんの変哲もない日々の日常を描写しながら、世界の奥にあって、世界を動かしている力を明らかにしようとしていたのではないかと思った。「道草」の余韻に浸る間もなく、すでに「明暗」を聴き始めているのだけど、「偶然」というものについて、「明暗」には、こんなことが書かれていた。

彼は2,3日前、ある友達から聞いたポアンカレー(数学者・物理学者)の話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向かってこういった。

「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりにも複雑すぎてちょっと見当がつかない時にいうのだね。ナポレオンが生まれるためにはある特別の卵とある特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来うるためには、またどんな条件が必要であったかと考えてみると、ほとんど想像がつかないだろう」

彼は友達の言葉を、単に与えられた新しい知識の断片として聞き流す訳にいかなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に当てはめて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後ろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動について人から牽制を受けた覚えがなかった。することはみんな自分の力でし、言うことはことごとく自分の力で言ったに違いなかった。

「どうしてあの女はあそこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違いない。しかしどうしてもあそこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうして、このおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違いない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然?ポアンカレーのいわゆる複雑の極致?なんだか分からない」

 

ぼくは、もしかしたら、「偶然」というものはないのかもしれないと思っていたりする。何かを偶然だと感じるのは、ただ単に、人間には全体を見通す能力がないからにすぎないのではないだろうか。ぼくは50年生きてきて、ぼくの人生は、不思議な偶然の一致の連鎖によって成り立っているような気がしてならなかったりする。この不思議な偶然の一致をユングは「シンクロニシティ」と呼んだ。ユングは自分の精神療法の仕事を通じて、何度となく、意義深いシンクロニシティに遭遇したそうで、そのようなシンクロニシティは、いつも心理的な極限状態ともいえる時期や内的な変化とともに起きていることに気づいたそうである。漱石も、相当、心身の不調に悩まされてきたようである。

ぼくも、「どうしてカップル喫茶なんていう仕事についたのだろう?」とよく思う。また、「どうして、お店の名前をエイジャと名付けたのだろう?」「どうして、20年もの間、営業できているのだろう?」などということをよく思う。もちろん、自分で望んだから、カップル喫茶という仕事につき、お店をエイジャと名付け、20年営業を続けてきたわけなのだけど、エイジャをやるまで、自分がお店の経営に携わることになるだなんてことは、まったく思っていなかったのだ。でも、エイジャを始めるときには、なぜかは分からないけれど、お店の経営の仕方というものを、なんとなくではあるけれど、不思議と理解できていたような気もする。それまでの人生経験や自分が興味を持っていたものによって、こうすればよいのではないかということをおぼろげながら理解できていて、お店をやる前から、その準備ができていたような気もする。こういったことはただの偶然なのだろうか?ぼくが夏目漱石の小説に強く心が惹かれたのも、偶然なのだろうか?また、このような訳の分からないブログを書いているのも偶然なのだろうか?なんだかよく分からない。
漱石は、この分からなさに小説という形で取り組んだのであろうか?