日常日記

店長の日常

11時30分起床。
昨日は、久しぶりの日曜日お休み。読書をしながら、夕方までゴロゴロすごす。読んでいた本は、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」(三宅香帆著)。「X」をみていたら、タイムラインで流れてきて、面白そうだったから、すぐにKindleにダウンロードをし読み始める。すごく面白くて、ワクワクしながら読んだ。明治から令和の現代までの歴史を背景に、100年に渡る日本人の読書事情を紐解いていくという、なんともすごい本だった。重厚な内容だけど、とても読みやすい。三宅香帆さんは何歳なんだろう?と思い調べたら、1994年生まれで、まだ30歳と知り、びっくりした。この本で、何度も言及される映画「花束みたいな恋をした」が気になり、夜、U-NEXTでみる。これまた、面白かった。2021年の映画で、異例の大ヒットを記録したらしい。「四月になれば彼女は」にも通じる内容だと思った(こちらは、残念ながらあまりヒットしていないみたいだ)。「花束みたいな恋をした」では、主人公である「絹(有村架純)」が「恋愛生存率」というブログを読んでいるのだけど、そこには、こんなことが書いてある。

始まりは終わりの始まり。出会いは常に別れを内在し、恋愛はパーティーのようにいつか終わる。だから、恋するものたちは好きなものを持ち寄ってテーブルを挟み、おしゃべりをし、その切なさを楽しむしかないのだ。しかし、わたしは数パーセントに満たない恋愛生存率を生き残る。

「出会いは常に別れを内在している」というのは、その通りだとぼくも思う。時間の流れが出会いを作り、時間の流れが別れを作る。恋愛をしているときに感じる幸福感が永遠に続けばよいのにとは誰もが思うことだと思うけど、浜辺に作った砂の城が、波によっていつか必ず流されるように、恋愛から生じる幸福感もいつか必ず流れ去る。恋愛とはなんなのだろうか?恋愛と性欲の違いはなんなのだろうか?男女が惹かれ合うのは、子孫を残すための本能だということも言われるけれど、子孫を残すことが難しい年齢になったあとも、人は恋愛をするし、性欲も消えない。恋愛や結婚は、幸福と関連付けられ、祝福されることが多いけれど、その幸福はいつか必ず消えるほかない運命なのだとしたら、それは祝福に値するのだろうか?

とはいえ、22年近く、エイジャを営業してきて、本当に沢山のカップルさんをみてきたけれど、数パーセントに満たないと(映画の中で)言われる恋愛生存率を生き残るカップルさんも確かにいらっしゃる。そのようなパートナーとどうすれば出会えるのだろうか?出会えたとしても、どうすれば、数パーセントに満たない恋愛生存率を生き残ることができるのだろうか?また、出会えなかったとして、人は幸福にはなれないのだろうか?そもそも、幸福とはなんなのだろうか?

「花束みたいな恋をした」をみた、あるライターさんが、この映画について、

「過酷になり続ける現代社会のなかで、思考停止せず自分なりにものを考え続け、他者を想いながら生きていくことへの強い気持ちが、他の坂元作品と同じように本作には溢れており、そのことがやはり、多くの人の心を強く捉えているのではないだろうかと、わたしは思うのだ」

と評したとのこと。

ぼくは、ものを考えることを、一人で考えるのではなく、開けた心で二人で対話すること、お互いにすでに持っている前提を排除し、また、正解を導き出そうという目的を持つことなく対話することが、恋愛生存率を高めることにつながるのではないかと思うのであった。