日常日記

店長の日常

10時30分に起きる。昨晩は、「エロス的人間論」を読みふけっていた。読みふけっていたと言っても、ぼくの場合、面白いものを読むと興奮が高まりすぎて、それ以上読み進めることができなくなるから、なかなか先に進まない。フロイトの洞察力の鋭さには驚くばかりである。でも、普通の人は、フロイトなんて知っているのだろうか?ぼくは、10代の頃から、やむにやまれぬ事情から心理学に興味を持つようになったから、ずいぶん前から、フロイトやユングについては知っていたけど(とはいえ、表層的な知識)、ブログを読んでくださっている方の中で、どれくらいの人が知っているのか気になるところである。とりあえず、お手伝いさんに聞いてみたところ、「名前だけは聞いたことあるような気がするけど・・・」という答えだった。ベストセラーになった「嫌われる勇気」に、フロイトは出てくるけど、「嫌われる勇気」はアドラーの理論がメインで、フロイトについては、わりと否定的な文脈で言及されているように感じた(アドラーのほうが正しいと)。フロイトの理論には間違いや言葉足らずのところも多くあると言われ、そのために現代では過小評価されているような気もしないではないけれど、100年以上も前に、それも宗教の影響が強いヨーロッパにおいて、性を抑圧することにより生じる心への負担を明らかにしたり、女性の性欲の解放について言及したことは、未だに新鮮な輝きを放っているように感じた。「エロス的人間論」の第8章「相互的エロス」で、次のようなフロイトの言葉が紹介されている。

「権威主義的な家族では、妻子を経済的に父または夫に縛り付けるだけでなく、性愛は、父または夫によって独占される。つまり妻や子供もまた、性的欲求をもった存在であるという事実を否定した男性本位の世界である。このような世界では、女性は性愛をもった存在としては認められず、むしろ子どもを産むもの(母親)としてだけその存在価値がある」

この文章のあと、小此木啓吾はこう述べる。

このような時代の中で、フロイトが恋人の性的欲求不満に気を遣い、ヒステリーの婦人たちについても同様の認識を持ったことは、きわめて進歩的なことであった。フロイトが人間における性愛の意義を正当に評価し主張したことは、とりもなおさず父権の独占物であった性愛を男性と女性の相互関係のこととして捉え直し、性愛における男性と同等の権利を女性にも認めることを主張したことになる。

自分が生きた時代の価値観に染まらなかったフロイトすごい。映画「哀れなるものたち」、「バービー」、「風よ あらしよ」は、男社会に対し、疑問を投げかけている映画だったりするけど、フロイトはフェミニストの先駆け的存在だったのかも。今は、昔ながらの価値観が、風によって、嵐によって、吹き飛ばされようとしている時代なのかもしれない。