素童さんが2018年に発表した、この本がとても面白くて、あっという間に読み終わってしまった。
素童さんに強い興味を持ったわたしは、素童さんについてネットでいろいろと調べていたら、素童さんと「ひらりさ」さんという女性の作家が、「人生の幸せと私生活の文章化は両立する?」という、ぼくにとってとても興味深いにテーマについて対談するということを知り、早速、申し込んでしまった。
9/1(金)に文筆家のひらりささんと、下北沢にある本屋B&Bでトークイベントします。ひらりささんは「女であること」の葛藤を剥き出しで綴ったエッセイ『それでも女をやっていく』を2月に出版されました。実生活を文章にする我々のような人間は幸せになれるのか?話し合います。https://t.co/z70TsOqEQi
— 山下素童 (@sirotodotei) July 19, 2023
実生活を文章化する人たちは、幸せになれるのか?というのは、ものすごく深い、哲学的、宗教的テーマなのではないかと思う。
ぼくが考える結論としては、「なれる」、というより、「そうしない限り、なれない」というものである。
とはいえ、実生活についてただ書くだけではなく、自分の「自我(自己中心性)」、言い換えると、「自分自身の罪深さ」を文章化(言語化)する必要があるとぼくは思っている。これは必ずしも、SNS等で発表しなければいけないというわけではなく(というか、それができる人なんてほとんどいないように思う)、自分がいかに自我的(自己中心的)な人間なのかということを自覚するために文章化(言語化)する必要があるということである。
とはいえ、自分の自我を文章化できるほどの才能に恵まれた人間というのは、ごく一部の人間であり、文豪と呼ばれる人は、それができたからこそ、文豪と呼ばれるのではないかと思う。そのうちの一人が、そう、夏目漱石である(笑)。
夏目漱石ほど、見事に、自分自身や他人の自我を文章化できた人は、そうそういないような気がする。というか、ぼくのメル友の男性が言っていたように、夏目漱石以降、夏目漱石を超えた作家は、本当にいないような気がする。
とはいえ、そんな夏目漱石でも、書けなかったことはあるようだ。最晩年の随筆「硝子戸の中」で、漱石は次のように語っている。
私はまだ私に対して全く色気を取り除き得る程度に達していなかった。噓を吐いて世間を欺くほどの衒気(げんき)がないにしても、もっと卑しい所、もっと悪い所、もっと面目を失するような自分の欠点を、つい発表しずにしまった。
でも、このすぐあとに、漱石は次のように書いている。
私の罪は、──もしそれを罪といい得るならば、──すこぶる明るい処からばかり写されていたことだろう。そこにある人は一種の不快を感ずるかも知れない。しかし私自身は今その不快の上にまたがって、一般の人類をひろく見渡しながら微笑しているのである。今までつまらない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、あたかもそれが他人であったかの感を抱きつつ、やはり微笑しているのである。
この文章を読んで、漱石は生前、相当苦しんだけれど、最晩年は、心穏やかな日々を送っていたのだなと思い、うれしくなった。
そして、「硝子戸の中」は、次の文章で、終わる。
まだ鶯が庭で時々鳴く。春風が折々思い出したように九花蘭(きゅうからん)の葉を揺かしに来る。猫がどこかで痛く嚙まれた米嚙(こめかみ)を日にさらして、あたたかそうに眠っている。先刻まで庭でゴム風船をあげて騒いでいた小供たちは、みんな連れ立って活動写真へ行ってしまった。家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放って、静かな春の光に包まれながら、うっとりとこの稿を書き終るのである。そうした後で、私はちょっとひじを曲げて、この縁側に一眠り眠るつもりである。(二月十四日)