日常日記

店長の日常

3日ぶりのブログ。なんだか自分が書いていることが、どうでもよい、くだらないことのように思え、闇に沈み込み、昨日、一昨日は更新できなかった。しばらく、ブログの更新はお休みいただこうかなど考えていたのだけど、またこうして、書いている。やっぱり自分は、書くことが好きなんだろうな。

最近のブログでは、本を読んで、面白いと思ったことを書くことが多いのだけど、そういうことを書いたあと、しばしば猛烈な羞恥心に襲われる。世の中の真理に精通していると言わんばかりに、得意げに書くというのは、基本的に、恥ずかしいことだと思う。でも、そういうことを本で読んだりするのはとても楽しいし、楽しいと思ったことは人と共有したくなってしまい、書いてしまう。そして、そのあと、羞恥心に襲われる。無限ループ。でも、書いちゃうんだよな。

 

「冒険の書~AI時代のアンラーニング~」より

 

人は学校でしか学べないわけがありません。にもかかわらず多くの人が「学校でしか学べない」と信じ切っていることをそら恐ろしく感じました。ことさらに学校教育が大事だと言う人はたちは、学校の外で自分で学んだことがないとでもいうのでしょうか。

今こうしている間にも、多くの子供たちが苦しんでいます。「いじめ」を苦に「不登校」になった自分を責め、「自分なんか生きている価値もない」と思い詰めているケースはあとをたちません。

ぼくが思うに、子供たちがここまで追い詰められている一番の原因は「不登校」という言葉そのものにあります。「不登校児童」とが「学校に登校しない子供たち」を意味しますが、この言葉の裏には「学校に通うことは当然の義務である」という大前提があります。だから社会は学校に通わない子供を「不登校児童」と名付け、不良やアウトサイダーのようなあつかいをするのです。

「不登校」という言葉がなくならない限り、この問題は根本的な解決には向かいません。子供たちを苦しめないためには、「とにかく学校に行かせないと」と思考停止して子供を学校に送り続ける親、そしてそれを許している大人であるわたしたち一人一人が実際に行動を起こし、「不登校」という言葉そのものをなくしていかなければなりません。ですから、もし目の前に「不登校児童」がいたら、ぼくはこんなふうに、その勇気と行動をほめてあげようと思います。

「おー!学校から自分の意思で脱出してきたんだね!良く決断したね!素晴らしいチャレンジだよ」と。

 

社会には、守るべき「まともさ」というものがあり、そのまともさは、子供であれば「学校」に行くこと、大人であれば、「仕事をすること」、夫婦であれば「浮気をしないこと」などがあると思う。でも、このまともさを、全部、ちゃんとこなすというのは、とても大変なことだと思うし、そのために、たくさんの問題が引き起こされているように思う。これは、人間は誰しも、まともじゃないところを抱えているということを示唆しているのではないだろうか。

とまた、恥ずかしいことを書いてしまった。