日常日記

店長の日常

8時40分に起きる。体重57,8キロ、体脂肪率13,2パーセント。

21年目も今日を含めて残り2日になってしまった。Tさんには、「21年の集大成として、我が結婚論を書き上げます!」と大見得きったのだけど、どうやらまだ終わりそうもない。というか、結婚論について「こんなことをこの場所で書くことに何か意味があるのだろうか?」という迷いが生じてしまっている。何事もなかったのようにフェードアウトしようかという考えが浮かんだりもした。もしかしたら、「結婚論はいつ書くの?」と思われている方もいらっしゃるかもしれないけど、じつは結婚論はすでに始まっていたりする。Tさんのエピソードを書いて以来、ここに書いたことはほとんど全部、ぼくの考える「結婚論」の一部だったりする。「論」というくらいなのだから、本来なら、論理的、組織的に書かないといけないような気がするけど、そのような芸当はぼくにはできそうもない。徒然なるままに、その日その時、思い浮かんだことを書く「兼好メソッド」が、一番自分には合っているようだ。でも、そろそろ、ぼくの「結婚論」の「結論」を述べておいたほうがよいように思った。結婚とは何か?ぼくが思うに、結婚とは「二人で行う仏道修行」ではないかということである。仏道とは、その名の通り仏になる道である。とはいえ、現在、一般的に「仏になる」とは、死んだ人を意味することが多いように思う。もちろん、そうではなく、「仏になる」とは、簡単に言うなら、「自分自身のエゴ(自我)を克服し、穏やかで柔和な謙虚な人になる」と言ってよいように思う。仏教的専門用語を使えば、「悟った人になる」と言ってもよいかもしれないけど、「悟り」という言葉は、人によって定義が異なることが多いから、難しいところだけど、悟りとは、「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の境地に至る」ことを差す場合が多いようだ。涅槃寂静とは、Wikipediaによれば、「煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静かな安らぎの境地(寂静)」ということである。静かな安らぎの境地に至った人は、他人からみれば、「穏やかで柔和な謙虚な人」と映ることが多いように思うから、そんな風に簡単に説明してみた。で、通常、仏道修行は、一人や団体で行うことが多いけれど、数年ぶりにTさんに会い、いろいろと話していたら、結婚とは、二人で行う仏道修行なのではないかという考えが思い浮かんだのである。なぜそう思ったかというと、久しぶりにお会いしたTさんは、以前にもまして、一層、エゴ(自我)が薄まり、穏やかな人柄になっていたように感じたからである。結婚という人間関係の形態を取ることは、人間の本能(おもに性欲)に制限をかけることになるから、煩悩の克服を目的とする仏道修行に似ているように思う。また、生まれ育った環境も違う、他人同士がひとつ屋根の下に暮らすことになるわけだから、好むと好まざるとに関わらず、自分や相手のエゴ(自我)と直面せざるを得なくなる。そのため、結婚は生活はしばしば修羅の場と化す。でも、結婚を二人で行う仏道修行という観点から捉えるならば、自分や相手のエゴ(自我)に直面させられることは、むしろ、メリットになり、そこにこそ、結婚の意義があるのではないかというのが、ぼくの「結婚論」の骨子なのである。そして、自分や相手のエゴ(自我)に直面し、それを克服していけば、徐々に涅槃の境地に近づいていくのではないかとぼくは思ったのである。とはいえ、これは「言うが易し行うが難し」の典型であり、この修行を完遂するのは、至難の業とさえいえるのかもしれない。この修行を行うには、まず、二人の関係が対等で協力的な関係にある必要がある。というのも、基本的にエゴ(自我)は、相手を支配(コントール)したり、されたりということを好むからである。キャンドル・ジュンと広末涼子夫妻の関係のようにである。このような関係は必ず欲求不満を生む。なので、広末が言った「”相手と対等である”という“愛する能力の前提条件”」というのは、まさしく至言といえるものであり、キャンドル・ジュンに対する当てつけの意味合いも含んでいたのではないかと思った。

とここまで、一気に書き上げたのだけれど、最初は、結婚論はまだまだ終わりそうにないと書いたけど、とりあえず、要点だけは全部書けたような気がする。