日常日記

店長の日常

15時に起きる。昨日、今日とお休みだったのだけど、どこへも行かず、お店でゴロゴロしていた。昨日もブログを更新しようかと思っていたのだけど、なんだか自分が書いたことや書こうとしていることがくだらなく思え、ただ単に承認欲求を満たしたいがために書いているような気もし、そんな自分が嫌になって、更新できなかった。しばらく更新するのはやめようかとも思ったのだけど、ふと書きたくなった。徒然草を書いた兼好は、徒然草を書き終えたあと、死ぬまで20年の間、散文形式としては、何も書かなかったらしい。これ以上書くことは、自分のためにならないと思ったのだろうか?徒然草の序段を知らない人は誰もいないと思うのだけど、徒然草の最後の段を知っている人は、とても少ないのではないだろうか。少なくとも、ぼくは島内裕子さんの「徒然草」を読んで初めて知った。徒然草の最後の段は、兼好が8歳のときのお父さんとの問答で終わる。

 

私が八歳になった年に、父親に問いかけて言った。「仏は、どういうものですか」。すると、父が答えた。「仏には、人間がなるのだよ」と。再び、私は尋ねた。「人間は、どのようにして、仏になるのですか」と。父は、また答えた。「仏の教えによって、なるのだよ」と。三度、私は聞いた。「教えなさった仏を、誰が教えになられたのですか」と。また、父が答えた。「それもまた、その先の仏の教えによって、仏になられたのだ」と。四度、私は問うた。「その教え始めなさった第一番目の仏は、どのような仏だったのですか」と聞いた時、父は、「さあて、空から降ってきたのだろうか。土から湧いて出てきたのだろうか」と言って笑った。「息子に問い詰められて、とうとう答えることができなくなりました」と、父はいろいろな人にこのことを語っては、面白がった。

 

これまで散々、いろいろなことを書いてきて、最後は、答えの出ない問答で終わる。

 

この段における島内裕子さんの解説がこれまた秀逸であった。一部抜粋。

 

何という素晴らしい擱筆(かくひつ・書き終えること)であろうか。究極の答えは、とうとうなかった。しかし、それでよいのだ。父が楽しそうに人に語るのを、幼い兼好は、その場にいて聞いたのだ。八歳の少年兼好は、大人たちの笑い声を聞いて、畏(かしこ)まってその場に居たではあろうが、おそらくは、心が伸びやかになってゆく思いがしただろう。幼い兼好の疑問に何度も父が答えてくれたように、大人になった兼好は、今度は自分で自分の問いに答えなくてはならない。その問いかけが続く限りは。