日常日記

店長の日常

本日3本目のブログ。

今日、営業中にパソコンで「キャンドル・ジュン」の会見をみていたら、ある女性会員さんに目撃され、「あはは。マスター、いま、キャンドル・ジュンの会見みてましたね。マスターもスキャンダルとか好きなんですね。うちの彼はそういうの全然興味ないんですよ~」と笑われてしまった。ちょっと恥ずかしかった。「スキャンダルには敏感に反応しちゃうんですよね~。でも、いま書いているブログのネタのためでもあるんですよ」とちょっと言い訳がましい答えをしてしまった。スキャンダルに興味を持ってしまうということを公言することは、やはり、恥ずかしい。でも、芸能人・有名人のスキャンダラスな報に接すると、ホッとしたりするのだ。公の場において謝罪しないといけないほどの罪悪を持っているのは、自分だけではないのだなと。

広末涼子とキャンドル・ジュンの関係を調べていたら、やはり、対等なものではなかったようだ。

 

キャンドル・ジュンが性格が悪いと言われる理由!

モラハラ発言がひどいとの声

 

今回の会見の全文を読んでみても、キャンドル・ジュンのモラハラ的資質が読み取れるような気がする。

キャンドル・ジュン氏1時間弱に渡り謝罪、平和への思い、家族らへの気遣いなどを訴える/全文

 

広末涼子は、過去にも不倫をしたことがあったそうで、これについての語りにも、キャンドル・ジュンのモラハラ的資質がみられるように思う。

キャンドル氏 妻・広末涼子が過去にも…「相手を確認し、彼女に分からないよう決着を付けたことも」

 

これでは、広末涼子の心も壊れるだろうし、不倫に救いを求めるのも当然の流れであったように思う。

 

キャンドル・ジュンは、広末涼子に戻ってきて欲しいと思っているようだけど、ぼくは、戻らないほうがよいような気がする。それは、広末涼子にとって地獄にすぎないと思うから。

 

こんなことを書いていると、ぼくはキャンドル・ジュンを非難し、広末涼子を擁護しているように思われるかもしれないけど、決して、そんなつもりはない。ぼくの中にも、キャンドル・ジュンの中にあるのと同じ、モラハラ的要素はたくさんあるし、これは多かれ少なかれ、誰の中にもあるものである。夏目漱石が、小説の中に描きだしたのも、誰の心の中にも巣食っているモラハラ的要素、つまりは、エゴイズム(自己中心性)と呼ばれるものである。

 

そして、このエゴイズムこそが、世の中の争い原因になっているのだけど、キャンドル・ジュンは、そのことに気が付いていないような気がする。気が付いていないからこそ、平和活動によって世の中を変えることができると信じているのだと思う。そういった活動をすることが悪いわけではもちろんないのだけど、向かうべき最大の敵は心の中のエゴイズム(自己中心性)であり、それをどうにかしない限り、世界が平和になることなど、ありっこないのだ。