日常日記

店長の日常

9時に起きる。体重57,7キロ、体脂肪率15,7パーセント。
昨晩は、20年来のお付き合いになるカップルさんとお食事に行き、がつがつ食べたから、一気に体重が増えた。たくさんの興味深いお話が聞けて、とても楽しいひとときとなった。みなさん、ぼくの前では、本音で話をしてくれる。日常生活の友人・知人にだって話せないことも、話してくれる。だからこそ、楽しいのだと思う。でもどうして、誰もがみんな、これを日常生活においてはできないのだろうか。ぼくが思うに、それは、社会が要求する「まともさ」ゆえのことだと思う。みなさんがぼくに話してくれることの多くは、まともな社会人としての立場を失墜させる恐れが多いものだから、日常生活においては、おいそれと軽々しく、口に出すことはできないことばかりである。でも、社会が要求する「まともさ」は、本当にまともなものだろうかという疑問がぼくにはある。日本では毎年、数万人の人たちが自分で自分の命を絶っており、未遂者を含めると、それは相当の数に上るという。死を選ぶ理由は、人それぞれあるとは思うけど、その理由のひとつとして、社会が要求する「まともさ」を充足させることができないから、という場合もあるのではないだろうか。不倫をする人は、社会においては、まともではないとされる。だから、結婚生活にどんなに不満があったとしても、夫や妻以外のパートナーを作ることを我慢するという人も多いように思う。また、この社会においては、よい歳をして、仕事をしていない人をまともではないとする。だから、社会でまともであるために、仕事がどんなに苦しくても、その仕事にしがみつく人も多いように思う。そして、人は病んでいくのではないだろうか。この社会において、まともであろうとすることは、尋常ならざるエネルギーが必要とされるような気がする。

 

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「哲学する漱石」に書いてある、漱石の哲学観がとても興味深かった。

「広い意味での哲学というのは、世の中をあきらかにみて、あきらかに解釈することのできることを指すのである」

昔、あるお客さまから、「マスターは、人の裏の顔をずっと見続けてきたんですね」と言われたことがあった。そのとき、ぼくが、どんな返事をしたのか忘れてしまったけれど、今思うに、裏の顔というより、「人のありのままの姿を見続けてきた」ということが言えるのかもしれない。そして、そんなぼくが、世の中を解釈をすると、人類に、純粋な一夫一婦制は、無理なのではないかということである。とはいえ、だからといって、一夫一婦制に反対しているわけではない。むしろ、肯定している。一夫一婦制は、人類には無理なのだけど、その無理さ加減こそが、一夫一婦制が持つ、本当の意義なのではないかと思うようになった。つまりは、「修行」ということである。そして、修行であるならば、その修行によって得られる成果はなんなのか。この辺が、ぼくの「結婚論」の要旨になりそうである。