日常日記

店長の日常

11時に起きる。
今日で4月も終わり。今年も3分の1が過ぎた。早いものだ。
昨日、というより、日付が変わり、今日の深夜1時半すぎに、セックルに行った。結婚のお祝い金をもって。1万円包んだ。このような社会的慣習、世間的な常識が著しく不足している自分は、先日、長年のお付き合いになるご夫婦会員さんに、「いくらくらい包むのがよいんですか?3万円くらいですか?」と尋ねたところ、「結婚式に呼ばれていないのなら、1万円くらいで十分では?」と教えてもらったから、その通りにした。最後、お会計のあとにマスターに渡したのだけど、とても喜んでくれた。やはり、頼るべきは、会員さんである。会員さんはなんでも知っている。全エイジャ会員さんの知恵を集結することができたら、世界も変えることができるであろう。マスターとはいろいろなことを話した。その全部を書こうとしたら大変だからそんなことはしない。というより、すでに忘却のかなたに去ってしまったものもたくさんあるから、昨晩マスターと交わした対話を全部網羅することなど、到底、不可能である。でも、いま簡単に思い出せることだけを箇条書きにすれば、「結婚式についてのあれこれ」、「結婚指輪について」、「結婚について」、「読書について」、「映画について」、「音楽について」、「お客さまとの会話について」、「今後のお店の営業について」、「エイジャについて」、「セックスレスについて」等々である。この中の1つのテーマだけでも、1つのブログが書けるように思うけど、読者の皆さまにとって一番関心が高いと思われる「セックスレス」について、書いてみようかと思う。マスターとの間に、セックスレスが話題に上がったのは、現在、放映されているドラマ「あなたがしてくれなくても」について、「みてますか?」とぼくが聞いたことがきっかけである。マスターは、「知ってはいますが、みてないんですよねー」と言った。あまり興味はないのかもしれない。ぼくが、このドラマの存在ついて知ったのは、先ほどのご夫婦会員さんとは、また別のご夫婦会員さんから教えていただいたのがきっかけである。夫婦二人で仲良く一緒に楽しんで見ているのかと思いきや、二人のタイミングが合わず、別々にみているということであった。奥さんが録画し、それを奥さんが最初にみて、そのあと、旦那さんがみるということであった。そして、旦那さんがみると、即座に録画リストから消去するということであった。理由は、子供にみられたら困るからということであった。セックスの結果生まれた存在に、その原因となったセックスについて未だ自分たちが興味を持っているということを知られてはまずいというのは、それもまた人情であろうとぼくは思った。そのご夫婦会員さんは、無論、セックスレスとは無縁なのだけど、「セックスレスをテーマにしたドラマがゴールデンタイムに放送されるとは、世の中には、セックスレスで悩んでいる夫婦がたくさんいるんでしょうね」などということを、話した。エイジャには、セックスレスで悩んだ末に、別のパートナーをみつけ、エイジャに来たという方も、おそらくは、たくさんいると思うから、カップル喫茶のマスターとして、「セックスレス」の問題は避けては通れないと思い、「吾輩は猫である」を中断し、早速、原作の漫画をKindleで読み始めた。現在10巻まで出ているのだけど、昨日から読み始め、5巻まで読み終わった。とても面白い。これはドラマにもなるわけだと思った。漫画の作者は、この「あなたがしてくれなくても」が出世作になったようである。3巻の最後のあとがきに「漫画家人生初めての3巻。読者の皆さまのおかげです」と書いてあった。これを書いた時点では、まさかドラマ化されるとは思っていなかったかもしれない。人生どこでどうなるか分からぬものである。着眼点が良かったのだろうと思う。とりあえず、5巻まで読んでみて、カップル喫茶営業歴20年のぼくが思ったのは、セックスレスの問題とは、個人がどうこうできる問題ではないのではないだろうか?ということである。つまり、夫や妻といった個人を責めたり、変えようとしても、致し方ないのではないだろうか?ということである。では、セックスレスが、個人の問題ではないとしたら、どこに問題があるのであろうか?やはり、文明社会そのものに内在する問題なのではないかと思うのである。性欲は人間に生まれつき備わっている欲求であることは誰からも異論はないと思われるが、一人の異性とのみ何年もし続けるということは、人間に生まれつき備わっている能力ではないのではないだろうか。にもかかわらず、文明社会における結婚制度はそれを常識的なこととして、当然のごとく要請してくるのである。そして、その道を外れることは、罪とみなされる。今でこそ、そのような罪を犯したとしても、殺されることはないけれど、昔は、石打ちの刑などに処されることもあったという。もっと残酷な仕方で殺された人もいるであろう。もしも、セックスという観点からのみ結婚を捉えるのであれば、結婚は一種の呪いにしかならないのではないだろうか。もしも、二人の間だけで充実したセックスライフを送りたいという理由からのみ結婚しようとする人がいたら、その人の頭の中はお花畑であると他者からそしられても文句は言えまい。もちろん、そんな人間はそうそういないだろうし、結婚は、セックスという観点からのみ捉えられるべきものでもない。当たり前である。では、ほかにどのような観点から、結婚を捉えるべきなのか。人はなにゆえに結婚をするのか。このことを考えるにつれ、夏目漱石の「明暗」が未完に終わってしまったことが、残念に思えてならない。