日常日記

店長の日常

8時30分に起きる。体重57,3キロ、体脂肪率13,5パーセント。
ご予約が消え、休みになった。休みになったら山に行こうと思っていたから、カーシェアの予約を取ったのだけど、なんだか行く気にならなかった。そんなときでも行けば必ず、「行ってよかった」となることは、これまでの経験から明らかなのに、行く気にならなかった。特に調子が悪いわけではない。むしろ、調子はよいほうだった。でも、行く気にならなかったから、カーシェアの予約はキャンセルし、また布団の中に潜り込んだ。そして、オーディオブックを聴くことにした。聴いたのは、吉田修一「犯罪小説集」。5つの短編からなる本なのだけど、3年くらい前に1話目を聴き、すごく感動したというのに、ほかの短編を聴くことはなかった。どうして、また聴こうと思ったかというと、それは、「挑発する少女小説」の「ハイジ」を聴いて、ちょっと残念に思ってしまい、それで、別のオーディオブックを聴こうと思い、「犯罪小説集」のことを思い出したのだ。斉藤美奈子さんの「ハイジ」の解説は、とても面白く感じたところも多かったのだけど、でも、なんだか納得いかなかった。面白い解説を書くことに重きが置かれているようで、ぼくがハイジを読んだときの感動がないがしろにされてしまっているような気がした。やはり、古典となっている小説は、誰かの解説を最初に読むのではなく、まずは、自分で本作そのものを読むべきなんだろうなという、当たり前と当たり前のことを思った。それで、とりあえず、昨晩は、「挑発する少女小説」をやめ、「犯罪小説集」を聴くことにした。「犯罪小説集」を聴き、その内容に心がすごく揺さぶられてしまった。ぼくが今日、山に行く気がしなかったのも、それが原因だったのかもしれない。いろいろなことを考えさせられた。少女小説は、過酷な運命に翻弄されながらも、力強く生きてく女の子たちの物語だけど、犯罪小説集は、逆に、そのために犯罪を犯してしまう人々が描かれる。いや、中には過酷な運命どころか、人一倍恵まれた環境で生まれ、なに不自由なく育てられたにも関わらず、犯罪を犯してしまった人も描かれている。けれども、犯罪を犯してしまったがゆえに、悪人とされてしまった人の闇がただ描かれるだけではなく、犯罪を犯すことなく、真っ当に生き、善人とされている人たちの闇も描かれている。あらゆる犯罪には、その犯罪を犯し、裁かれることになる悪人だけでなく、裁かれることなく、普通に生き、善人とされる人々も関わっているということが、吉田修一は言いたいのではないだろうかと思った。ひとつひとつの犯罪は、犯罪を犯してしまった当人だけでなく、すべての人に関わる、社会全体の問題なのだ。だから、悪人だけを取り上げ、糾弾し、裁き、牢に閉じ込めたとしても、社会はちっともよくならない。これが、吉田修一が書く小説のひとつのテーマになっているような気がする。
犯罪小説集を聴いたあと、ヨガをやった。ぼくがやっているヨガは、「アシュタンガヨガ」と言われるものなのだけど、犯罪小説集の中にも、「アシュタンガヨガ」が出てきて、ちょっと驚いた。吉田修一もアシュタンガヨガをやっているのだろうかと思い、ネットで調べてみたところ、そういう話は出てこなかった。ヨガのあとは、ジョギングに出かけ、帰りにチーズナンを食べた。関内駅地下マリナードにあるインド料理屋のチーズナンはいつ食べても絶品である。