「ジョーカー」の新作が公開されるんですね。
ポスターに、「この世界は、ただの舞台」とあり、「お。シェークスピア」と思いました。
この世は一つの舞台だ。
すべての男も女も役者にすぎない。
それぞれ舞台に登場しては、消えていく。
人はその時々にいろいろな役を演じるのだ。(お気に召すまま)
シェークスピアは、この世界がホログラム(幻想)であることを見抜き、人間のありのままの姿を作品に描いたのではないかとわたしは考えていたりします。
上記の言葉は、シェークスピアの「お気に召すまま」の言葉ですが、「あらし」では、より文学的な表現で、世界の幻想性(夢)について表現されていたりします。
余興はもう終わった…あの役者どもは
先にも話しておいた通り、いずれも妖精ばかりだ
そしてもう溶けてしまったのだ、大気の中へ、淡い大気の中へ
が、あのたわいも無い幻の織物と何処に違いがあろう
雲をいただく高い塔、きらびやかな宮殿
厳めしい伽藍、いや、この巨大な地球さえ、
もとより、そこに住まうありとあらゆるものが、
やがては溶けて消える
あの実体の無い見せ場がすなわち色褪せていったように
後には一片の霞すら残らぬ
われらは夢と同じ糸で織られているのだ
ささやかな一生は眠りによってその輪を閉じる
この文章は旧日常日記でも紹介したことがありました。
「われらは夢と同じ糸で織られているのだ」というのは、
精神も物質も、無機物も有機物も、元を辿れば、素粒子によって作られている、
というように解釈できるのではと思ってます。
でも最近は、
映画でもアニメでも、小説や漫画でも、
「世界は幻想である」
ということをテーマにした作品が増えているような気がします。
ジョーカーの新作は、ジョーカー版「マトリックス」みたいな感じになるのかもしれないと思いました。
源氏物語も、最後の巻のタイトルが「夢の浮橋」となっているように、世界は幻想(夢)であるということを表現しているのではないかと思うのでした。