日常日記

店長の日常

エロ、変態性と規範

生成と消滅の精神史~終わらない心を生きる~」を書いた、下西風澄さんの昨日のXのポストに、グッときました。

 

 

エイジャという場所は、世間一般の価値観からすれば、規範からの逸脱、倒錯を肯定する場所として存在しているように思います。エイジャのよいところは、「役割抜きの人と人のふれあい」が実現される場所だというところ。日常生活における役割には、常に規範というものが伴ってくるように思います。そして、この規範を守らないことには、生活することが難しくなってくるというのが世間というもの。他者から何を言われようが、まったく意に介さないほどの強靭な意志を持っている人なら大丈夫かと思いますが、普通の人は、世間体というものを意識せずにはいられないと思いますからね。

 

下西風澄さんは、「生成と消滅の精神史」の中で、夏目漱石論を展開しているのですが、上記のポストを読んで、「虞美人草」の中の次の会話を思い出しました。

 

「日本でもそうじゃないか。文明の圧迫が烈しいから上部(うわべ)を奇麗にしないと社会に住めなくなる」

「その代り生存競争も烈しくなるから、内部はますます不作法になりまさあ」

「ちょうどなんだな。裏と表と反対の方角に発達する訳になるな。これからの人間は生きながら八つ裂(やつざき)の刑を受けるようなものだ。苦しいだろう」

明治以降、夏目漱石が言っていた通りのことが展開されてきたように感じますが、でも、今起こっている現象をみると、あらゆることが急激に変化しつつあるように感じるのでした。