日常日記

店長の日常

源氏物語

今日、図書館で、

島内景二さんの「源氏物語ものがたり」を借りてきました。

「はじめに」の一行目から、引き込まれた。

 

源氏物語は、とにかく不思議な作品である。その存在自体が、ミステリアスなのだ。

 

ぼくは、不思議なもの、ミステリアスなものに弱い。

この文章のあとに、なぜ「源氏物語」が不思議な作品なのかの理由が書いてあるけど、

長くなるから省略(笑)。

 

源氏物語の成立は、1008年とされ、今から1000年以上も前のことだけど、源氏物語という不思議な物語の謎解きが始まったのは、その約200年後、1225年とのこと。それを始めたのが、「藤原定家」なのだそう。そこから現在まで、800年に渡り、源氏物語の謎解きが展開されており、今も継続中とのことだ。こんなこと知らなかった。紫式部が書いた源氏物語の原本が存在していると思っていたけど、ないらしい。全部、写本とのこと。

 

「源氏物語ものがたり」の「はじめに」で、源氏物語の謎解きが登山に喩えられている箇所があって、それが面白いから、引用してみる。

 

山登りの好きな人は、初めて登頂する山であっても、登山ルートが整備してあるので心強かった経験をお持ちだろう。源氏物語を読み始めると、「先人」たちの努力で源氏物語の頂上に向けていくつもの登攀ルートが開拓され、整備され、つまずきそうな難所では手すりやチェーンまで完備していることに驚き、感謝せずにはいられなくなる。

けれども、どの整備された登攀ルートも、なぜか八合目か九合目くらいから、すべて消えてしまう。しかも困ったことに、登り始める前に麓から見上げたときには、この山の頂はひとつしか見えなかったけれども、八合目付近まで登ってくると、この山には複数の山頂が密集していることがわかり、どこが「最高地点」なのか分からず、混乱してしまう。登山者は自分の目と直感を信じて、最高地点とみなした山頂を目指し、道なき道を歩まねばならない。

ここから先、源氏物語の頂上にアタックするには、最後の最後で「個人の力」となるのだ。ここまでの道を付けてくれた先輩たちに感謝しながら、たぶん自分の力では頂上への登攀は成功しないだろうけれども、そして、もしかしたら自分の登ろうとしている頂が最高地点ではないかもしれないけれども、10メートルでも20メートルでも、新たな道を切り開き、整備しておくことが、先輩たちへの恩返しであり、次の時代の後輩たちへの思いやりだ、と気づかされる。

 

いや~、この21年の間、カップル喫茶マスターとして、たくさんの「光源氏」をみてきた自分も、「源氏物語」という山に登りたくなってきたぞ。

 

島内景二さんのこの本は、源氏物語に取りつかれ、この永遠の処女峰に登頂したいという大いなる夢を胸に秘め、それ以前の登攀ルートを飛躍的に延長することに成功した人たちの記録らしい。

そして、面白いのが、彼らの奮闘によってできた「道」は、光源氏が歩んだ人生の「道」とも似ていて、紫式部が源氏物語を創作した「道筋」とも似通っているとのことだ。

 

島内景二さんは言う。

 

源氏物語を愛し、この物語に取りつかれた人は、結果として自分の人生を一編の「物語」にしてしまうのだ。(略) 源氏物語を読むと、紫式部の肉声が聞こえてくる。「人間たる者は、自分の人生を一編の物語にすることが大事です」

その声に勇気づけられて、男たちや女たちは、源氏物語という難攻不落の未踏峰に挑み続けた。源氏物語という山の最高地点に登攀できた人物はまだいないかもしれないが、「源氏物語を愛した人々」は数多く、彼らは人生のすべてをこの物語に捧げた。つまり、「源氏物語を生きた人々」なのだ。だから、一人一人の人生の歩みは、「ミニ源氏物語」となる。

 

源氏物語にがぜん興味が沸いてきた。