本日2本目のブログ。
広末涼子とキャンドル・ジュンの話題が続いているけど、ぼくは世の中には新しいニュースなどないと思っている。現在起こっていることは、過去に何度も起こったことだし、将来、何度も起こることである。なぜかというと、時代や地域が変わっても、人間そのものはまったく変わっていないからである。そのことを最初にぼくに教えてくれたのは、コラムニストの山本夏彦である。30年くらい前に、親父の本棚にあった山本夏彦の本を何気なく手に取り、読んでみて、その面白さに衝撃を受けた。「ニュース」というものについて、山本夏彦は以下のようなことを書いている。久しぶりに読んだけど、何度読んでも味わい深い文章だなと思う。洞察力の鋭さに圧倒される。
浮気した細君を、それと知った亭主が、猟銃でうち殺した事件がある。
むかし、西洋の新聞で読んだ。いまだに覚えているのは、その記事があまりに小さかったからである。
わが国なら、もっと大きく出たはずである。
西洋では珍しくないとみえ、また銃はよく用いられるとみえ、この記事はこんなに小さいのだな、と私は察した。
ろくに読めない横文字だから、繰返して見ているうちに私は思い出した。これなら十年前に読んだ、百年前に読んだ記事である。
知らぬは亭主ばかりなり、と川柳にあるから、女房の浮気は、わが国にもあったのである。
表向きないことになっていた時代が、しばらく続いただけである。
それは西鶴、近松の時代にもあった。今もある。これからもあるだろう。
裏長屋の住人なら、出刃包丁で女房を追回した。お侍なら、重ねておいて四つにした。
そのころ猟銃やピストルがあれば、用いたにきまっている。
包丁とピストルの違いは、デテールの違いに過ぎない。殺された女房の名前も、デテールにすぎない。
事件は百年前と同じものだ。
凶器や氏名の相違が、相違だろうか。
大きく写真と氏名が出ているから、違うと見誤るのである。以来、私はあらゆる新聞記事から、写真と住所氏名を去って、ながめるようになった。
この世の中にニュースがあろうか、と疑うようになった。
某国の飛行機が某国の国境を越えたと、何度私は読んだことだろう。今にも大戦になりそうだが、たぶんなるまいと思われるその感じを、何度私は感じたことだろう。
ある朝めざめたら、昨日の友は今日の敵だった。大国は小国を包囲した。戦車は国境を越えた。宰相官邸は占領された。
領袖たちは拉致された。戦車は放送局に迫りつつある。
「これが最後の放送になるでしょう。皆さんさようなら−−−−」
何度私はこの声を聞いたことだろう。十年前に聞いた。百年前に聞いた。千年前に聞いた。
千年前は、ラジオ放送はなかったというか。ラジオごときはデテールにすぎぬ。
大国は小国内の真の同志の要請によって進駐した。要請した同志を助けて新政府を樹立する、云々。
たちまち私は冷笑熱罵を聞いた。小国を支持する声である。べつに、大国を支持する声を聞いた。事あるごとに発する知識人のアピールを見た。
アピールは、新政権は恥ずべき傀儡政権だという。いやそうでないという。
傀儡なら、私は戦国乱世のころからなじみである。隣の大陸にそれを見たのは、つい戦前のことである。
十年前は、戦車が市民を蹂躙した。今度はしないというが、いつまたするか知れたものではない。
社会主義は平和勢力である、断じて他国を侵略しない、
非武装中立が安全だと論ずるものには、何よりの教訓だと言うものがあるが、教訓にはなるまい。
やっぱり非武装中立にかぎると、言うものは言い続けるだろう。
それに賛成するものは、賛成しつづけるだろう。
すべて十年前の、百年前の新聞に出ていることばかりである。レジスタンスもあろうし大国に内応するものもあろう。
「春秋に義戦なし」と古人は言ったが、この世の中にニュースはないと、ながめて私は楽しまないのである。