日常日記

店長の日常

9時に起きる。体重56,3キロ、体脂肪率13,9パーセント。

雨が心配だったけど、オープンから順調にご来店いただいている。感謝、感謝。

Twitterをみていたら、「レンタルなんもしない人」さんの以下のツイートが流れてきて、「そうだった。そうだった」となった。

難しい本を読んだり、複雑多岐で難しいことを、あれやこれやと考えることは、ぼくには向いていないということなのだろう。とはいえ、難しい本を読むのをやめることはわりと簡単にできることではあるけれど、複雑多岐で難しいことをあれこれと考えてしまうのは、ぼくの癖のようなもので、やめようと思って簡単にやめられることではないし、仕事の面でも多少役立っているところもあるような気がするから、悩ましい。

 

昨晩読んだ、三島由紀夫は太宰治が嫌いだったという記事も、これまた面白かった。

toyokeizai.net

どうして、三島は太宰を嫌ったのかというと、太宰の苦悩の半分は、運動や規則正しい生活といった、健康的な生活をすることで解決できるはずなのに、それをしないで、文学(芸術)をしなかったからということである。

 

太宰のもっていた性格的欠陥は、少くともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない。(『小説家の休暇』)

 

ど正論だと思う。

 

とはいえ、運動や健康的な食事、規則正しい生活をし、それを継続することは、とても難しいことなのではないかと感じている。特に自分のような意志薄弱な人間にとっては。自分ができることを、相手がしないからといって、「嫌い」とまで、言うのはどうなのだろうか。「太宰君、一緒に筋トレしないかい?」と誘ってあげればよかったのではないだろうか。いや、太宰の性格(あんまり詳しくないけど)からして、何度も誘ったけれど、けんもほろろに断られてばかりだったということも十分ありうる。しかし、健康的な状態でいることが人間にとって一番快適で楽なはずなのに、どうしてそのような状態でいることが難しくなってしまうのだろうか。人間は自然な性向として、快を求め、不快を避けるということが言われるけれど、これは嘘だと思う。嘘と言って悪ければ、とても言葉足らずな表現だと思う。一口に「快楽」といっても、健全なものと不健全なものとがあるように思う。一時的には快楽であるけれど、その後、とんだしっぺ返しを食らわせられるような快楽を、快楽と呼んでよいものなのであろうか。また、快楽においては、「程度問題」というものがある。たとえば、お酒は適度に飲む分には健康によいとされることが多いけれど、飲みすぎると今度は健康を害する。健康に良い程度と健康に悪い程度の分岐点は、人それぞれ違うと思うけれど、その分岐点を正確に判断することは人間には難しいのではないだろうか。また、たとえ判断することができたとしても、それを常に守ることは、困難を極めるのではないだろうか。スーダラ節は、お酒だけではなく、あらゆる快楽に当てはまるのではないだろうか?

チョイト一杯の つもりで飲んでいつの間にやら ハシゴ酒 気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝これじゃ身体に いいわきゃないよ分っちゃいるけど やめられねぇ

 

でも、どうして、スーダラ節のようなことが起こってしまうのだろうか?ぼくは、過剰な快楽を味わうことから生じる不快感というものは、快楽を味わっている最中ではなく、快楽を味わったあとにやってくるからだと考えている。これは筋肉痛のようなものである。運動中に、「これ以上やると明日の朝は筋肉痛になるな」という判断は、人間にはほとんど不可能のような気がする。もしそれができたとしたら、現代社会において、多くの人を悩ませている腰痛なんてものは、存在しないように思う。座り過ぎによる腰痛は、そのもっともたるものではないだろうか。楽に座っているつもりが、月日の積み重ねによって、大きな不快をもよおす腰痛の原因になっていたりするのだ。なりたくて腰痛になる人なんて誰もいない。なのに、たくさんの人が腰痛になる。これは、「楽」が「苦」を生じさせるといえないだろうか。逆に、「苦」が「楽」を生じさせるということも多々あるように思う。たとえば、現代人の多くの人にとって、運動には「苦」のイメージがあるように思うけど、その運動を適度にやることによって、「楽」が生じる。

こう考えてくることで、吾輩(名前のない猫)は思った。われわれ猫族と違い、人間族というものは「楽」と「苦」の違いを判別しかねる存在なのではなかろうかと。やはり、人間族というものは、われわれ猫族と違い、大変愚かな種族であると断定せざるをえまい。